前野家屋敷

別名-  付近住所 愛知県江南市前野町西267 現在-
2011/8/29 案内板アリ


前野氏  吉田龍雲家の屋敷を中心として、かつての前野氏一族の屋敷があったことが慶長13年に作られた「前野村道之覚」絵図と、むかし「八屋敷」と近くの人々がいっていた事によってわかる。
 祖先は稲木良峯氏の子孫で良峯高長(1200)が前野氏の元祖と言われている。
岩倉織田伊勢守に仕え家老も勤めた家柄である、近郷の豪族生駒・蜂須賀・安井・坪内氏などとの姻戚関係をもつ名門として地域の開発・発展に大きく貢献そたことが古文書や「言い伝え」で知られている。
 昭和34年の伊勢湾台風で屋敷内の土蔵が被害を受け、整理中に先祖が残した「武功夜話」などの文書類発見されて先祖をはじめこの地の様子が鮮明に浮かびでてきた。
特に天下統一を進めた織田信長や豊臣秀吉とは深い関係を持ち、また、蜂須賀小六とは義兄弟の契りを結んだ前野将右衛門長康をはじめ小坂孫九郎雄吉、同助六尉雄善、野田清助、森勘解由などの武将たちを輩出したのもこの屋敷である。

前野小兵衛「加賀守」由緒碑
越中井波城主前野加賀守勝長は岩倉織田伊勢守家老前野小次郎尉宗康の三男として此地に生れる 佐々家の猶子となり佐々成政の鉄砲隊を率い三段撃の戦術を以て 名声を博す 天正12年「1584」成政に扈従し厳寒立山さら峠越を敢行 浜松徳川家康 清須城の織田信雄を訪ねる其の折 故郷の山河に佇み措別涕涙同道の一子嘉兵衛を在所に托し壮途も空しく領国新川郡で没す朴報に接し一族の者八屋敷土居下に供養の為 五輪塔を建立 今は観音寺に現存する 子孫繁栄し水戸光圀に仕官の彰考館総裁佐々介三郎「子朴」もあり先祖由緒の此の地を訪ね一首を詠む
   おもひゆるも 心ほそしや夕けふり
          たつる野原の行ずえの身を  子朴

        


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